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落語、お初徳兵衛馴れ初め話の舞台を歩く

2015年06月24日 00:00

徳兵衛の職場はこの辺り

徳兵衛の職場はこの辺り

Nikon D90, Nikkor 16-85mmF3.5-5.6

※ブログに視覚要素を加えるlightboxを導入しています。上記画像をクリックすると少し大きな画像をポップアップして見る事が出来、暗くなった部分をクリックするか、画像下部のCloseをクリックすると元に戻ります。



本日はSony α7 四方山話はお休み。6月14日の記事が中途半端で終わってしまったのでその続きを・・・。




吉原、柳橋、大桟橋、浅草寺、山谷掘、首尾の松、これがお初徳兵衛馴れ初めの話の舞台だ。首尾の松は今の蔵前橋の袂にあるので、不明なのが「大桟橋」なんだ。これがどこなのか?、どこを指すのか・・・。

噺の内容を掻い摘んで書くと・・・。

吉原通いに度が過ぎて勘当された商家の若旦那徳兵衛が一念発起し、柳橋の船宿で船頭を目指す。一人前になった頃、馴染みの客を乗せて浅草寺を参る為に大桟橋まで行ったところ、やっぱり吉原へ行きたいと。

そこで吉原の水上の玄関口である山谷掘まで送るが、連れの柳橋の芸者お初を吉原に連れて行ける筈もなく、お初をそのまま乗せて柳橋へ戻る際、夕立に遭い、首尾の松の下で一休み、そこで・・・。
他の地域の芸者を吉原に連れて行く、これを「びんつけ」と言うらしく(びん?、ぴん?、びんつき?、調べても良く判らなかった)嫌われる。まぁ当たり前だろう。吉原じゃなくてもどこでもそういう暗黙のルールがあった筈。六本木のクラブのオネーサンをアフターで銀座のクラブに連れて行くようなもの。

そして船に芸者一人を乗せるのもご法度、これを「一人船頭一人芸者」と言うそうな。船頭は当時花形の商売だったらしく、そして客も芸者だから何かあっちゃ困る、これも江戸時代の暗黙のルールの1つであったのだろう。今ならレーサーとキャンペンガールってところか?。

ここで先の疑問。大桟橋ってどこよ?。ネットで調べると、山谷堀(さんやぼり)の今戸橋近くにあった桟橋で吉原へ通う船の発着場とある。うーん、脳味噌の中、クエスチョンマークだらけ。調べていくとそれをどこかのブログで同じように疑問を持たれていた。

Google Mapで浅草寺周辺を出せば判ると思う。柳橋から大川(隅田川)に出て浅草寺に参詣するのならば、駒形橋の袂にある駒方堂へ行くのが常だ。そこから参道が始まり、その先に雷門がある訳。

そして山谷堀(Google Mapでは「山谷掘公園」で見るべし)の今戸橋に大桟橋があったら、浅草寺を大きく通り越し、背後から参る事になる。四万六千日の最中にそんな事をするかいな?。そしてそのブログの主は大桟橋は駒方堂、今の駒形橋の近くにあったんじゃないかと推察している。

また、五街道雲助の噺の内容は、客が心変わりをし参詣をせずにそのまま吉原へ行きたいから大桟橋を越して山谷堀の桟橋まで行ってくれと言っているんだ。この噺が江戸時代の地理を忠実に再現しているのなら、大桟橋=山谷掘はあり得ない。時に船頭の徳兵衛はその時「観音様も弁天様も一緒でさぁ(吉原には弁財天がある)」なんて洒落た事を言う。

江戸時代を忠実に再現していなくても、柳橋から船で浅草寺への参詣するのにわざわざ駒形堂を越えて、浅草寺の裏手に行く筈もない。しかも山谷掘は浅草寺から言えば鬼門(北東)に当たる。そこから浅草寺を参ろうと思うか?。

山谷掘の河口近くに待乳山(まちつやま)聖天があり、浅草寺の鬼門を守っている訳だ。客が待乳山を経由するのなら噺にも待乳山と言う言葉が出てくる筈。それらを裏付けるものとして、浅草寺のサイトを覗くと駒形堂について、、、

ご本尊観世音菩薩が示現されたといわれる隅田川の駒形橋脇。元禄年間(1688~1704)までは、川に面して東向きであったが、現在は川を背にして、西向きに建つ。江戸のむかし、舟着場があり、渡しや船宿もあって、大変賑わった。


とある。このように浅草寺への参詣で山谷掘まで行くってのはやはりおかしい。当然、駒形堂が柳橋から大川を上る船客の為の玄関口であるのが判る。だからこそこの船着場が落語に出てくる大桟橋は今の駒形橋辺りではないかと・・・。

※古地図を見ながらの場合は、Google EarthよりもGoo地図で浅草寺辺りを出して明治時代の古地図を見るのが良いかも

勿論、山谷掘の今戸橋、ここは大川の河口、当時はこの辺りには有名な料亭もあったと言うのでここにも桟橋があった。このページ、最初の2枚を見るとそれが判る。

まぁ大桟橋がどこにあろうが、我々にはどうでも良い事ではある。でもたかが100年ちょっと前までそう呼ばれていた場所が不明、日本の歴史ってどうなっているの?、と思っちゃうんだなぁ。

あの西郷隆盛の写真、これって西郷さんじゃないようだ。足利尊氏の肖像画も着ている衣装が時代と異なるからこれも別人だって話だ。西郷さんは江戸末期から明治の人だし、足利尊氏も着物が違っているのだから何故長い間、それが尊氏だとされていたのか・・・。

誰かが言っていた。日本って個人の特権が物凄く強いらしい。だから名家の蔵に保存されている貴重な歴史を記した古文書などが外に出てこない場合が多いそうだ。有名な武将などは神として祭られているから遺体検分なんかも出来ないらしいし、歴史、文化への国家予算が少ないのか、博物館の倉庫に眠っている古文書なども手付かずなのが仰山あるらしい。

時代劇が嘘だらけでしょう。アメリカの西部劇でも嘘だらけ、娯楽物だから仕方がないとは思うが、流石に吉宗の時代に江戸城の天守閣(姫路城が使われているのかな?)を映像に出しちゃいけない。江戸城の天守閣は家光の時代以降は作られていないのだから・・・。娯楽物だとしても富士見櫓を天守とするべきだ。

本題へ戻ろう。とにかくせっかく「お初徳兵衛」なる落語を真面目に聞いちゃったのだから、その内容に沿って今の柳橋、浅草寺、大桟橋(推測)、山谷掘をもう一度巡りたいと思ったんだ。それがようやく実現した。


柳橋が花街だった名残り

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大川(隅田川)を上る

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大型の船が通れば波は立つものの、今の隅田川は穏やか。しかし江戸時代は海に船を漕ぎ出すようなもので、大川を自在に行き来出来る船頭はやっぱり花形だったのだろう。


駒形橋近くに今も船着場があり、この辺が大桟橋かと

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駒形堂

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駒形堂からの浅草寺参道

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ここまで来たら普通、ついでだからと浅草寺を参拝するだろうが、ここは徳兵衛の船に乗った馴染みの客に倣い、このまま山谷掘の河口を目指す。


もうすぐ山谷掘

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浅草寺の鬼門にあたる待乳山

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そして山谷堀の河口、今戸橋に着く。昔の今戸橋の写真が下。

光村写真部 - 『旅の家つと』 29巻 78コマ目


昔の面影が皆無の今戸橋

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山谷掘だってこ~んな風景に

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埋め立てて公園にしちゃう意味があったのだろうか?。

この堀は昭和に入ってからはドブ川と化していたのだろうが、最終的には王子の飛鳥山まで続いていたそうで、こういう風景を当時の行政は丸で残そうと思っていなかったのだな。

ここは台風などの大雨が降ると、中央の溝部分に水が溜まる。夏以降、台風の翌日に是非訪れてみたい。やはり当時を思い馳せるにはここに水がないと駄目だ。

そしてこの日の最終目的地、吉原である。まぁ殺風景だこと。ここの交差点名は「吉原大門」となっているが、本当の大門はもっと奥にある。


吉原への入り口

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この先は今でも男性天国。時に、この写真、正面の道が大きく曲がっているでしょう?。これは昔のままなんだ。吉原周辺の古地図にもちゃんとくの字が描かれている。ここは衣紋坂と言い、客がここで服を整えるとかでそう呼ばれたそうな。このくの字を超えて初めて吉原大門があった。

女郎が逃げないようになんて説があるが、そうではなく、客側の心理を操作する為にこうしていたと聞いた事がある。くの字になって先が見えない事から客がそこでワクワクしちゃう。ワクワクしながら服を整える訳だ。

他にもここから先は別世界、外から遊郭内の風景を見せない為、また将軍が日光へ行く先に中を見せないようにとも言われているが、将軍様はこの道、通らない気がするが・・・。それとも将軍様は一度浅草寺等にに出向いてから日光へ行くのか?。

流石に、この日、徳兵衛の船に乗った馴染みの客に倣って、くの字を超えてムフフ!、ってな訳にも行かず後ろ髪を引かれる思いで吉原を後にする。見返り柳とは良く言ったものだ。

さてさて、ここまでお読みになって、まぁ大桟橋が駒形堂近くにあったろう、そこまで書いているのに、お初徳兵衛馴れ初め話のあの「首尾の松」の写真はどうしたんだい?、なんて疑問もあるかと・・・。

そう!、ワタクシ、せっかくお初徳兵衛の舞台を歩いたのに首尾の松を撮るのをすっかり忘れてしまったのだった!(笑)。一番肝心な写真を忘れるとは、トホホである。

そこでこんな写真でお茶を濁したい。


蔵前橋にて、お初がモチーフ?

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こんな浮世絵もある

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そして次の写真。全体と寄った写真をご覧になって欲しい。船に女が二人乗っているのだが、顔が鳥になっている。これは江戸の粋って奴だろうか?。多分「夜鷹」をこれで表現したんじゃなかろうか?。ただ当時、夜鷹が船に乗って客待ちしていたかどうかはちょっと微妙(笑)。

それとちょっと下流に行ったら、幕府とかの金蔵があったから、そこから近い場所に夜鷹が夜な夜な彷徨っていたか?、これも果たしてどうか・・・。


怪しげな浮世絵

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寄ってみると顔が!

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何故、首尾の松を撮り忘れたか。現在この松は川に面した遊歩道にあるのではなく、1段上がった場所にあるんだ(昭和に植えられて7代目になるんだそう)。そして上の写真を撮った後、蔵前橋の写真を川べりの遊歩道から撮っていたら、完璧に首尾の松が頭から消え去っていたのだった(笑)。




そんな訳でこの記事を作る為に柳橋から吉原まで歩いた訳だが、そりゃぁそれだけの為に出掛けたりはしない。

せっかく山谷に行ったのだから、この後、明日のジョーで有名な山谷の商店街を巡り、視聴率が低迷しちゃっているらしいNHK大河ドラマでもきっと描かれたに違いない南千住の小塚原刑場跡も訪れたのだった(吉田松陰縁の地)。

なんとそこには鼠小僧次郎吉の墓もあった!。これはびっくりしたねぇ~、棚からぼた餅!。そのお話はまた後日!。


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コメント

  1. tsunomagari | URL | -

    BigDaddy様、こんばんは。

    何かをモチーフにしてブラブラ歩きながらの撮影は楽しいですね。
    落語や時代小説を思い出しながら江戸の町を歩くのは感慨深いです。
    今回のお話は、吉原関連ということで、『吉原御免状』という時代小説を思い出してしまいました。
    山谷掘って、暗渠になっているんですね。
    ブラタモリで暗渠は、よく出てきましたね。
    江戸の町の水路の多くが、今は目に見えない風景になっていると思うとワクワクします。

  2. BigDaddy | URL | -

    > tsunomagari さん

    デジタル写真を始めてからもう6年目くらいでしょうか、浅草周辺も年に少なくとも一度は訪れているでしょうから6回以上は撮っている筈で、無目的で浅草を歩いてももうあまり面白くなく、こうやって何か目的を持って、それに沿って撮り歩く、そんな散歩写真が楽しい、言い換えるとそうでないと楽しくない、そんな感覚でしょうかね。

    江戸の街には水路・・・、まさにそんな感覚で、東京を歩くのでなく江戸を歩くとでも言いましょうかね(笑)。

    暗渠を歩くのはブラタモリの影響がとても大きいですね。フィルム時代なんて暗渠なんて単なるドブ側に蓋をしただけの道でしかなかったですから。今では偶然暗渠を見かけたら感動しちゃう程ですよ(笑)。

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